地車囃子の起源と天満囃子はりげん連

大阪の祭りといえば「チキチンコンコン」の軽快なリズムで囃し立てる地車(だんじり)囃子です。なかでも天神祭は、全国から百万人を超える人で賑わう日本三大祭のひとつに数えられています。そこで演奏される地車囃子は大阪の夏を彩る風物詩として広く知られています。

この地車囃子の起源は諸説ありますが、「太閤秀吉の大坂城築城の際に、石の運搬で力を合わせるために用いた鉦や太鼓の調子」に由来するというのが一般的な見解とされています。

そして江戸の末期、元禄の頃になると町民文化が活性化します。それに伴い、天神祭には氏地各町々以外に社地商人中や乾物屋中などの同業者仲間による団体も参加し、八十台を超える多くの地車が曳き出されたと記録されています。その記録によると、長柄町は享保二十年(1735)の天神祭で大阪天満宮に氏地地車一番として宮入をしたと記されています。

このように多くの地車が大阪天満宮に宮入をするようになると、天満周辺ではあちらこちらから地車囃子が聞こえてきたに違いありません。この頃になると、元々、力を合わせて地車を動かすために必要だった地車囃子は、地域により独自の進化を遂げ、三つの流派に別れました。長柄を中心とした北天満、蒲生・今福を中心とした東天満、福島を中心とした西天満がそれです。

元号が明治になると、かつて天神祭宵宮のハイライトであった地車曳行は衰退していきます。この頃、長柄を中心とした北天満では茂刈源吉という人物が居ました。源吉はたいへんな地車好きだったことから、天満の宮大工・柳吉兵衛にあやかって「だんじり吉兵衛」と呼ばれていました。源吉は地車が衰退してもなお地車囃子に熱心で、家業の洗い張り屋の屋号をとって初の地車囃子の集団を作り「張源連」と名付けました。これが「はりげん連」の始まりです。

その後、天神祭では毎年、大阪天満宮境内にて地車囃子を奉納していた功が認められ、大阪天満宮より「天満囃子」の名を与えられ、現在の「天満囃子はりげん連」に継承されています。

  • 初代 茂刈源吉
  • 二代目 茂刈某(名不明)
  • 三代目 茂刈登二郎
  • 四代目 茂刈直道
  • 五代目 吉田稔
  • 六代目 林栄
  • 七代目 廣田仁

天満囃子はりげん連の特徴は、かやくと呼ばれる曲目に「天満」、「八幡」、「吉野」など、地名をあてたものが多く、太鼓のバチさばきでは、「ドロ」、「カ」の他に「裏バチ」、「ころバチ」といった多彩な技を使います。また、踊りは俗に言う「龍踊り」や「蛇踊り」ではなく、天満囃子本来の「狐踊り」を継承し、舞台を主体とした芸能として地車囃子の元祖として確立しました。なかでも六代目林栄氏は、大阪天満宮にて開催された地車囃子コンクールにおいて二度の優勝を飾り、また長柄を発端とする「はりげん連」は最古の地車囃子集団として「上方伝統芸能の達人」の名をいただき、大阪府知事表彰を授与されています。

参考文献

大阪春秋 第55号 天神祭の地車 PartⅠ 近江晴子
山車・だんじり悉皆調査

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